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●潟Wュピターインターナショナルコーポレーション設立50周年記念 |
時代に適応したビジネスでさらなる飛躍を | |
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1959年、一人のインド商人が日本の地を踏んだ。潟Wュピターインターナショナルコーボレーション創業者のナリンダー・シン・セティさんは、50年前、プロペラ機でムンバイからシンガポールなどを経て羽田へ。さらに寝台列車に揺られ、取引先の会社があった関西へやって来た.当時、神戸にはインド人コミュニティーや国際学校、シーク教寺院があったことで、神戸で会社を興すごとになった。 「もともとボンベイで日本から白動車の部品を輸入し、販売していました。しかし、日本からの部品が届かず、顧客に迷惑をかけられないと、急速日本に行くごとになりました。戦後、持ち前の勤勉さで、日本におけるビジネスの労働理念、誠意の大切さを学びました」。 10月8日、北野クラブ・ソラを会場に創立50周年の記念レセプションパーティが開催され、関係者約60名を前に、創業時を振り返った。ナリンダーさんは、昨年来日したインドのマン・モハンシン首相と会 |
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談を行うなど、母国インドからも注目を浴びている。 設立当初は、大手白動車メーカーの部品を専門に輸出していたが、その後、建設資材や工業品にまで分野を広げた.1960年代後半、インドの工芸品等の[ロ本への輸入を開始し、一躍脚光を浴びた、1970年代、万国博覧会への出店を皮切りに大手有名デパートのインド物産展への出店を重ね、国内の営業ネットワークを拡大した.1985年のプラザ合意による国際協定の結果で円高になり、海外から衣料品などを安く大量に仕入れ、大手小売店との取引もはじまった.」現在、衣料や雑貨、スポーツ |
用品、清涼飲料水などを輸入するまでに成長した。「1980年代からは、外国人向けの高級マンションなどの不動産を販売.バプル経済がはじけてからはワンルームマンションに転向し業績を伸ばしました。今後、時代に適応したビジネスをどのようにディレクションしていくか、今日この日は、新しい挑戦のはじまりです」とラビンダー・シン・セティさんが宴を締めくくった。 | |
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